もし、投稿をやめていたら──“凡人”が見た、もうひとつの未来

「続けた」話の裏にある、“やめたかもしれない”自分
115日間、毎日投稿を続けた――。
今となっては「よくやっているね」と言われることも増えました。
でも正直に言います。
何度も、やめようと思いました。
眠たい朝、反応がない日、意味があるのか分からなくなった週。
「こんなこと、やめても誰も困らないし」と自分に言い訳しながら、諦めかけた朝もありました。
そこでふと思ったんです。
もし、あのとき本当に投稿をやめていたら、自分はどうなっていただろう?
仮想シナリオ「やめていた自分の115日後」
投稿をやめた初日は、むしろ少しホッとする。
「自由になった」とさえ思える。
でも、2日目。
気が緩みすぎて、朝寝坊する。
スマホを開いても発信するネタは探さない。
「ああ、また“受け身の自分”に戻ったな」ってうっすら気づく。
5日目。
発信してた人がシェアされてるのを見て、少しモヤっとする。
「やってても、そんなに変わらなかったよな」って言い聞かせる。
30日後。
自分の中に“成長感”がない。
でも、誰も気づかないし、誰にも責められない。
むしろ「元に戻った安心感」に包まれている。
けれど、ある朝ふと浮かぶ。
「このまま、3ヶ月、半年、1年経ったら、自分は何者になってるんだろう?」
現実「続けた自分の115日後」
現実の自分は、しつこく、地味に、発信を続けた。
毎朝4時に起きて、何かを探し、読み、考え、投稿した。
派手な反響はなかった。
でも、投稿開始してすぐに「読んでいるよ〜」と声をかけられた。
1ヶ月後、職場でも発信が当たり前になり始めた。
2ヶ月後、自分でも気づかないうちに**「話の引き出し」が異常に増えていた。**
発信した内容は、自分にとっての思考のログになっていた。
そして、115日後。
もう発信しないと落ち着かない体質になっていた。
「凡人でも変われた」という実感が、はっきり残っていた。
比較して見えた“たった1つの違い”

大きな違いはないように見えて、自分の“自己定義”が根本から変わっていた。
「自分は、何かを続けられる人間なんだ」
この認識が、あらゆる行動の基礎になっていた。
まとめ「成功の鍵は、“やめないこと”だった」
努力不要論は、もしかすると半分は正しいかもしれない。
でも、もう半分はこうだと思う。
「努力が不要かどうか」ではなく、
“やめること”が不要だった。
才能なんてなくても、成果が出なくても、
「まだやめてない」という事実だけで、凡人は変われる。
だから、続けよう。
今日も。明日も。
だって、やめなければ、「変わる方の自分」になれるから。
私が尊敬する人物の一人に、APAグループ会長の元谷外志雄さん(著者名:藤誠志)がいます。
氏が書かれている『APA的座右の銘』の中で、特に心に残っている言葉があります。
「勝ち取った物だけが残る 与えられた物はいつか奪われる」
APAグループ会長 藤誠志(元谷外志雄)
私はこの言葉を、「知識や経験も、自ら積極的にインプット・アウトプットしてこそ、本当の意味で“自分のもの”になる」という意味だと解釈し、常に心に刻んでいます。
この記事を読んでくれたあなたへ

もう1日だけ、やってみてください。
その1日が、未来の分かれ道になるかもしれませんよ。
「継続の力」いうテーマで、115日間、毎日投稿を続けてきました。
そのリアルドキュメンタリーを「努力不要論をぶっ壊す!」という切り口でnoteにまとめています👇
👉 凡人が115日投稿し続けた記録はこちら
今回はその裏側――
「もしあのとき、投稿をやめていたら?」という“もうひとつの未来”について綴ります。